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ワカルヤツ限定

yijin.exblog.jp

ここは感情のゴミ捨て場です。

目が覚めたら窓一つ無い、コンクリで固められた部屋でした。
有るのはトイレとベッドと扉、あとはその前にある5つのボタンだけ。

怖くなり、大声で叫んでみたところ声が響きました。
見上げると天井は黒く、闇に包まれています。
どうも相当の高さがあるようです。

部屋をうろついていると、扉の前に設置されたボタンの付近に3つのことが書いてあることに気がつきました。

・この中に1つだけ扉が開くボタンがある
・4回間違えると扉は二度と開かない
・この部屋に居る限り食料は永遠に支給される

なるほど…と思い、あなたはボタンを押してみることにしました。

まず右から2つ目をポチ。
反応はありません。

次に左端をポチ。
これも不正解のようです。

残るは正解率1/3のボタン。
あなたはこのボタンを押すことが出来ますか?

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作成側からして注目して欲しい点は1つだけ。
それは出口に繋がっているものは5つのボタンしかない、というところです。
要するに確実に外へ出るには、その中にある1つのボタンを押すしかないわけですね。

そしてあなたは2回のチャレンジで失敗しています。
これは残る成功の確立を1/5から1/3へ押し上げていることになります。

しかし逆から見ると怖いですね。
失敗の確立は4/5 → 3/4 → 2/3と減っているにも関わらず、間違えることが出来る回数は減っている。
ボタンを押す前は3回は間違えられるものが、気がついたときには後1回に減っているわけです。

さて、その状況であなたはボタンを押すことが出来ますか?というお話。

疑心暗鬼というのは面白いもので、恐らくこうなってしまえば”本当に出られるボタンがあるのかどうか”ということも考えるでしょう。
また我慢していればもしかしたら助けが来るかもしれない…という考えも浮かんでくるかもしれません。
そうしたらボタンを押さないということも選択肢の1つになるでしょう。

たったコレだけの単純なルールですが、状況が持っている表と裏の考え方以外にも多面的に生まれてきます。
守るべきものが多く頭の中に過ぎる人間であればあるほどボタンを押すことが難しくなるのかもしれません。

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補足:
これは以前に考えた緊張と緩和、束縛と開放、静と動という観点1つに絞った演劇の設定です。

ちなみにその脚本では”これと同じ設定で映画を撮った監督”が主人公になります。
というわけで、部屋の中にあるものに彼の書いた台本(若しくは原作の本)が置いてあります。
果たして彼はそこから出ることが出来るでしょうか?
# by yijin | 2011-11-22 12:51
うん、正直怖いね。

今後の人生を考えると怖い。
けど、いちいち不安を口にしていても意味が無いことは知っている。

言霊って言ってね。
口にすることで、耳にすることでその言葉が現実になることがある。
だから、不安があっても自分の中で戦うようにしている。

それでもね、怖い時は怖い。
でも、なんとかするしかないってことも良く知っている。

こういうときは胸を張る。
自信が無くても、とにかく胸を張る。
それが少しずつだけど自分の軌跡になっていく。

うん、正直不安だよ。
だけど、そんなものに負けてはいられない。
# by yijin | 2011-11-21 17:05
確かに油断と言えば油断なのかもしれない。
久しぶりに、カッターナイフで手を切ってしまった。

非常に愚かである。

しかも今回は少し傷が深い。
親指の先端からチラッとだが肉片が飛んだ。
吹き出る血を見ながらも、自分が意外なほどに冷静だったのはビックリした。

それほど考えられない理由だった。

だって左手が、自らナイフに切られに行ったんだもん。
そりゃ驚きもするし、あっけにとられて動じないわ。

右手はというとただ構えていただけ。
さぁ切るぞ!っていう時に、何故か定規を押えていた左手がカタパルトから射出するように飛び出していった。
結果、肉片が飛んでいった…という形。

非常に間抜けな話だが、逆に得たこともいくらかある。

それは痛みと言うのは絶対的であって体内から出て行かない反面、相対的であるという点。
だから「コレとコレではどちらが痛い」というのが比較できるが、それを対外的に「コレはコレくらい痛い」と伝えることが出来ない。
このアタリマエなことがアタリマエである理由が理解できた、ということは非常に良かったような気がする。

ただ…まぁ、知らなくても良かったものでもあるのかもしれない。
# by yijin | 2011-11-10 12:55
先日、マビノギと言うオンラインゲームをやめた。
理由としては相方との口論から始まるという一時の感情的なものだったが、最終的には引退。

その日からしばらく考え込む日が続いていた。

しかし、戻ろうと言う意識は全く無かった。
何故かはわからないのだが、心の底ではどこかで潮時と考えていたのだろう。
まぁ確かに、少しずつ辞め方を考えていた部分もあったことは事実だ。

周りを混乱させてはしまったのは非常に心苦しかった。
が、説明をしても理解してもらえなかったりしたことについては「仕方がないこと」としてキッパリ諦めることにした。
後はおつかれさまでした、と終わる人はそこで終わり。

中には少しだけだが「このままサヨナラは寂しい」と言ってくれた人がいる。
少し考えたのだけど、嬉しかったからそのままネットの友達として関係をもてたら良いなと素直に思えた。

そして現在に至る。


マビノギについては頭にくることも多々あったけど、楽しくやらせてもらったのは良かった。
ただゲームとして見た時には悪い意味で「そろそろ末期かな」と感じる点があり、その点をどう克服していくのだろうという疑問がある。

ちなみに引退の潮目と感じたのもそこの一点。
多分、現在起きているキャラクター力のインフレを押えることは出来ないだろう。
と言うのもそれをしてしまえば「有力な金脈」である古参、ハードユーザーにストレスを与えてしまうからだ。

しかしそれをしなければ新規の獲得は見込めないし、中間層、ライトユーザーとの差は開く一方。
果たしてそれをどうしていくのかというのがマビノギの、いや、全てのオンラインゲームが抱える問題と言えるかもしれない。

同時にユーザーが遊ばされることに慣れきっているのが気になる。
あれだけ豊富な動きが出来て、あれだけ多くのことが出来るのに口コミで広がる「遊び」というのがない。
ゲームの継続期間が長いわけだから、そういう別のテンプレートが生まれても可笑しくはないとは思うのだが…

その辺りでプレイヤーがもっと工夫しないと、サービスの寿命を縮める結果になる。
現在ですらイベントのリバイバル化が進んでいるわけだから、運営にはかなりの負担がかかっているだろう。
求めるだけでなく、新しい楽しみを提供することも「その世界の住人」として大切なポイントだと思う。
# by yijin | 2011-11-07 08:49
視点には3つあり、一つ目が群集の内々の視点。
それを外から眺める観測的視点がもう一つ。

これらとは別に内から外側を見る視点がある。
自分は昔から「ペットボトルの中から客を見るジュースの視点」と思っている。

ある意味では別のものを捕らえる観測的視点なのだが、これが群衆の中に居るとまた違ってくる。
例えば個性的な集団の中から外を見た場合「我々は個性的である」という内々の感想から眺めてしまうことが多い。
個々で眺めるとまた別の感想を抱くこともあるが、内から外の世界を見たときになんとなくツマラナイと感じるのはこれが原因からだと思う。

これとは逆に内から外の世界を見て「楽しそう」と思うこともある。
言ってしまえば無い物ねだりと表現できてしまうが、実際には内々の視点が飽和状態なのだろう。
飽きてしまったとすると簡単ではあるものの、本質的には少し違うと思う。

元々持っていた内々の印象というのが不正解であったのだ。
というかこの認識は元より相対的には成り得ないわけで、正解の無い認識であるから仕方がないことでもある。
大抵の場合、それが原因で群集が崩壊する。

一番わかりやすい例を挙げるなら夫婦や恋人だろうか。
必ず口々に「こんな人だと思わなかった」、「こんなことになるとは思わなかった」という話をしている。
そうなるともうその場には居られなくなるし、その場に居ることが苦痛になってしまう。

結果として少しずつ離脱が始まる。
かつて内から外を見たときに特別だと感じていれば居るほど、その崩壊を止めることはできない。
ただその離散した群集、即ち個々はまた自然と別の群れを作り始める。

こういうところは妙に細胞というか、分子というか。
そういう原始的な部分の性質を引き継いでいるんだな、と妙に感心してしまうことがある。
# by yijin | 2011-11-06 11:56

by yijin